■安倍晴明を探せ1
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 小説・マンガが火付け役となり、いまや安倍晴明ブームはピークとなりつつあります。わたしも安倍晴明が大好きなので、晴明ブームによる恩恵で、たくさんの出版物がでるのは、とってもうれしいです。
 でもわたしが興味があるのは、後世に作り上げられたスーパーヒーローとしての晴明ではなく、陰陽道家の基礎を築いた実務家としての晴明です。
 京都に残る虚像と実像の晴明の足跡を、一緒に探しに行きましょう。
 まずは、団長が「平安京に安倍晴明を探せ」(『歴史と旅2001年6月号』)と題して書いたものを掲載します。しっかりと史実の晴明像をつかんでください。

実像の安倍晴明の遺跡

穀倉院・左京職  陰陽寮・大膳職・主計寮

 安倍晴明は、延喜21年(921)に大膳大夫安倍益材の子として生まれ、寛弘2年(1005)に85歳で没した。前半生はいささか不遇で、40歳になってもまだ天文得業生(てんもんとくごうしょう 陰陽寮天文道に属する特待生)の地位に甘んじていたが、40歳代後半に陰陽師(単なる陰陽道の専門家ではなく陰陽寮に属する公式の官)となってからは道が開けた。50歳代前半には陰陽寮天文道の責任者である天文博士に任じられ、位階も正五位下から正五位上へと昇進していく。天文博士の位階は正七位下が原則であるから、これは異例の出世といえよう。70歳を過ぎてからは主計権助(かずえのごんのすけ)から大膳大夫(だぜんのだいぶ)左京権大夫(さきょうのごんのだいぶ)穀倉院別当(こくそういんべっとう)を歴任し、位も従四位下まで昇進したから、中級貴族としては満ち足りた晩年を送ったに違いない。

 晴明の邸宅は、「土御門よりは北、西の洞院よりは東」(『今昔物語集』巻24)または「土御門町口」(『大鏡』)という場所、つまり、土御門大路に面した北側で、西洞院大路と町小路(町口小路)との間に存在した。これは平安京の条坊制でいうと「左京北辺三坊二町」にあたっている。従来はこの町のどの部分に晴明邸が所在していたかは不明であったが、最近、山下克明の研究によってそれが判明した(山下克明「安倍晴明の邸宅とその伝領」『日本歴史』第632号、2001年)。長承元年(1132)、右京亮安倍泰親と権天文博士安倍兼時(晴道)が晴明邸跡と推定される土地の領有をめぐって争ったが、この土地は土御門大路沿いに所在しており、面積が六戸主〈へぬし〉(東西20丈[約60メートル]、南北15丈[約45メートル])であった(『長秋記』同年5月15日条、『中右記』同日条)。また、治承4年(1180)の火災によって「土御門大路北町西半町」(『玉葉』同年2月10日条)が焼失したが、そこには晴明の子孫である安倍氏の陰陽師が多数居住していた。山下はこのふたつの史料を比較検討することにより、晴明の邸宅は左京北辺三坊二町の南西角の六戸主、つまり土御門大路と西洞院大路の交差点の東北側の約2700平方メートルを占めていたことを考証したのである。すなわち、晴明の邸宅跡は京都市上京区の上長者町通と西洞院通の東北角付近(上長者町通西洞院東入ル土御門町と西洞院通上長者町上ル菊屋町)に該当することになる。現在のこの地には一般の民家が建ち並んでおり、晴明の邸宅跡を示すものがまったく存在しないのはいささか残念である。この場所のさらに東北側には京都ブライトンホテルが存在しており、そこが晴明邸跡であるともいわれてきたが、同ホテルの敷地のうち晴明邸の跡地にひっかかるのは駐車場の西端部分だけである。

 晴明の足跡を訪ねる場合、忘れてはならないのは陰陽寮〈おんようりょう〉である。晴明が天文得業生、陰陽師、天文博士として人生の大半を過ごしたのがこの役所であった。陰陽寮は中務省の支配下の機関で、天文密奏・造暦・報時・ト筮のことをつかさどっていた。平安宮(大内裏)の東南部に中務省の敷地があり、陰陽寮はその東南端に配置されていた。陰陽寮は東西17丈(約51メートル)、南北26丈(約78メートル)の範囲を占めていたと推定される(古代学研究所編『平安京提要』角川書店、1994年)。現在、その跡地は丸太町通と美福通の交差点の西南側(上京区美福通丸太町下ル主税町)にあたっており、民家が建ち並んでいる。丸太町通の北側で中務省東築地(中務省鈴鎰東築地)の跡が発掘されたことがあり、そこに建てられたマンションに遺構の位置が表示されているのを見ることができる。中務省東築地とはすなわち陰陽寮の東築地の延長であったから、これは晴明ゆかりの陰陽寮をしのぶ唯一の手がかりであるといえよう。

 前述したように、晴明はその晩年にいたって主計権助、大膳大夫、左京権大夫、穀倉院別当といった官職を歴任した。主計権助や左京権大夫といった権官(定員外の役職)は晴明の位階を上げるための名誉職であった可能性もあり、晴明がこれらの官職についてどれだけ実質的な働きをみせたかはよくわからない。主計寮は平安宮内の東南部にあり、その跡地は二条城西側の二条中学校(上京区美福通竹屋町下ル主税町)付近に該当する。左京職は左京三条一坊三町にあり、その跡地はJR二条駅から千本通をはさんだ東南側の地(中京区西ノ京職司町)にあたっている。

 一方、晴明が就任した職の中で穀倉院別当と大膳大夫は実質的な職であった可能性が高い。穀倉院別当は、公卿別当・四位別当という上級職と、晴明クラスの実務官僚が補される五位別当という実務職に分かれていた。陰陽寮の職員はしばしば穀倉院の職員を兼ねていたから、晴明が穀倉院の事務別当に任命されるのは不思議ではない。また、大膳大夫は晴明の父・益材の極官(最終的な官職)であり、晴明にとっては父の後を継ぐことができる誉れある官職であった。したがって、この両職については晴明も実務に携わっていたと考えてよいだろう。穀倉院は平安京右京三条一坊一・二・七・八町を占めており、その跡地は現在のJR嵯峨野線二条駅の西北側(中京区西ノ京栂尾町、西ノ京星ヶ池町)にあたる。大膳職は平安宮の東端に所在しており、その跡地は丸太町通と松屋町通の交差点の北側(上京区松屋町通丸太町上ル三町目、日暮通丸太町上ル北伊勢屋町)の付近である。大膳職の本体を直接しのばせるものはないが、丸太町通智恵光院東入ル南側のコンビニエンス・ストアーの前に大膳職の被官であった主水司〈もんどのつかさ〉(天皇に捧げる水・氷を管轄する役所)の跡を示す石碑が建っている。

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