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元亀三年(1572)九月、信玄西上に伴い、昌景は本陣の出発に先立って三河衆など五千余の軍勢で別働隊を率いた。下伊那から東三河にはいり、三方が原の合戦では秋山信友隊とともに徳川家康の本陣に迫った。家康は死力を尽くして抗戦するが、昌景に防衛線は次々落とされ、剛毅な家康も一時は自決を覚悟するほどであった。しかし、本多、大久保らの直臣に諌められ、ほうほうの態で浜松城に逃げ込んだという。大久保彦左衛門の「三河物語」によると、「さても山県という者、恐ろしき部将ぞ」と感嘆したといっている。後年、武田家滅亡後、家康は山県隊の旧臣をそっくり井伊直政に仕官させている。また家康は、本多信俊の子、信勝の幼名を山県と称せさせた。家康の脳裏には昌景の印象がよほど強烈だったものと思われる。
その他、川中島の合戦の折り、上杉方鬼小島弥太郎との一騎打ちは講談では有名であるが真偽のほどは分からない。
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