初陣、明智城攻め

 信州伊那攻めのとき、神之峰城攻略で一番乗りという功名を立てる。兄にも劣らぬ勇将の片鱗とみせ激賞される。源四郎の赴くところ敵なしとまで称された。 

 天正二年二月、武田勝頼は織田信長の属城 18 を落とした。明智城攻略の時、信長は六万の軍勢を用いて後詰にきた。昌景は六千の兵をもって信長に対抗したが、信長は有名な赤備えを見ると早々と引き退いた。昌景後を追うこと四里、これ以上は追わなかった。信長はそれより四里引いたところに陣を布いたため、明智城はあっさり落城してしまった (名将言行録)。
 昌景の武名のほどが良くわかる言い伝えである。

山梨県山県館御所有、山県昌景公画像。本画像は許可を得て掲載。無断転載厳禁。

 恵林寺に伝わる二十四将画像の模写かと思われる。一般的に知られている昌景はこちらの画像の方が多い。

合戦と装備
 武田家の支柱であった板垣、甘利の両雄が亡き後、昌景は信玄より武田の最高職である「職」に任じられ、戦陣でも信玄を補佐し全幅の信頼を得た。特に城攻め、野戦での駆け引き、采配ぶりは信玄も感嘆するほどの妙を見せたといわれる。城攻めの短期決戦は山県勢のお家芸との定評もあった。黒字に白抜きの桔梗の紋を染め抜いた旗指物を背に戦陣狭しと暴れまわる勇猛さは、数々の軍談にも記されている。「近代武勇記」には、「上杉には川田監物信親あり、徳川家康には本多百助正広、福島正則には長尾隼人、武田信玄には山県三郎兵衛尉昌景等々の勇将あり。いずれも大剛の士なり」と記されている。また、「古今武勇覚書」の中には昌景の出陣の際のいでたちについて書かれている。「甲州の英傑山県三郎兵衛尉昌景の陣脇差を見ると、赤木作りで側面は角地皮で菱取りに巻いてあり、黒漆で塗りこめられている。鞘は白木で所々に桜の皮を巻き、これも漆で塗ってある。刀身は一尺五寸ばかりの塗り身である」
 川中島の合戦では、典厩信繁、刑部少輔信廉が本陣を固め、昌景は旗本の指揮、穴山信君、内藤修理隊が本陣の守衛に当たった。

恵林寺内山県昌景の墓

 元亀三年(1572)九月、信玄西上に伴い、昌景は本陣の出発に先立って三河衆など五千余の軍勢で別働隊を率いた。下伊那から東三河にはいり、三方が原の合戦では秋山信友隊とともに徳川家康の本陣に迫った。家康は死力を尽くして抗戦するが、昌景に防衛線は次々落とされ、剛毅な家康も一時は自決を覚悟するほどであった。しかし、本多、大久保らの直臣に諌められ、ほうほうの態で浜松城に逃げ込んだという。大久保彦左衛門の「三河物語」によると、「さても山県という者、恐ろしき部将ぞ」と感嘆したといっている。後年、武田家滅亡後、家康は山県隊の旧臣をそっくり井伊直政に仕官させている。また家康は、本多信俊の子、信勝の幼名を山県と称せさせた。家康の脳裏には昌景の印象がよほど強烈だったものと思われる。

 その他、川中島の合戦の折り、上杉方鬼小島弥太郎との一騎打ちは講談では有名であるが真偽のほどは分からない。

山県氏

山県姓襲名と兄の謀反

山県大弐

装備品

与力、同心

武士の心得

関係した史跡

関連人物

火踊り

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