山県性 (昔と現在)

 美濃山県郡発祥の清和源氏頼光流多田氏族。応永年間山県主計家信が甲斐に移って武田家に仕えたことから始まる。家信の子孫河内守虎清は武田信虎に使えていたが、信虎の悪政を諌めたため成敗され断絶していた。

 信玄が甲斐の国と統治すると、飯富兵部少輔虎昌の弟源四郎に命じてその後を継がせた。これが山県三郎兵衛昌景である。昌景は近習小姓から天文二十一年に侍大将、武田二十四将に数えられるようになる。原昌胤とともに武田家の最重臣、両職を務め、駿河江尻城代となる。が、天正三年五月長篠の合戦で戦死した。

内藤修理亮昌豊は山県昌景、馬場信房、高坂昌信とともに武田四名臣と言われる。馬場、山県、内藤 (工藤) 三人の父親は、信虎に讒言したため死罪になっている。三人とも似た境遇である。 左 内藤修理亮昌豊の墓 (山梨恵林寺内)、右 内藤昌豊旗印
 武田家滅亡後、子孫は巨摩郡篠原(現竜王町)に住み郷士になったという。天正三年に死去した甲府広小路山県甚太郎、山県善左衛門、山県源左衛門らの名前も見える。篠原郷に生まれ、江戸にでて医者の傍ら尊王運動の思想を説き、宝暦九年「柳子新論」を示し、明和事件で死罪になった山県大弐は昌景の子孫である。

昌景の子供たち

女子
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昌次

 甚太郎、永禄九年 (1566) 上州大戸浦野左兵衛、武田に降りしとき、信玄
昌景をして三島 (群馬県吾妻郡) を守らしむ。この地を山縣と称し、昌次これに当たる。天正三年五月長篠にて討死。「武田家過去帳」= 甲斐広小路在住

 戦場考:甚太郎の墓は、高坂助宣の墓と背中合わせの形に御座候。石塔は尺三四寸の野面石に左のようなる書付之候。
  山縣甚太郎昌次
  従士名取又左衛門道忠  之墓

山縣甚太郎昌次の最後  「長編長篠軍記」
 徳川の被官大坂新助、初発で倒し得なかったのを恥じて、第二発。弾丸はあやまたず山縣の兜の眉さし深く打ち込まれ。勇猛鬼神を凌ぐ山縣が真っ逆様に落馬して壮絶なる討ち死にを遂げた。
 このとき、山縣の嫡子昌次は父昌景の討死を知るや、直ちに刀をふくんで馬より落ちて父の後を追った。従士名取又左衛門道忠手早く首を打ち落とし、これを抱いて立ち去り、山形の地で割腹殉死した。
 山縣父子主従は、壮絶鬼神をもつかしむる討死を遂げて、設楽原頭に勇名をとどめた。時に昌景五十三歳、昌次二十七歳くらいであった。

女子
 三枝勘解由右衛門守友の妻か?ご存じ奥近中六人衆の1人で、昌景の娘婿でもあります。初めは山県善右衛門と名乗っていたそうです。

昌満
 源四郎将監 天正三年五月父昌景長篠に討死のとき、父昌景の従兄小菅五
郎兵衛、昌満を助けて陣代たり。天正十年三月七日昌満兵を率いて勝頼に従わんとす、勝頼異心あると疑いて入れず。後上杉景勝に随身、慶長三年岩代須賀川に配さる。慶長六年景勝米沢に転封のときに致仕。武田の菩提を弔うため、須賀川千用寺を守る。元和三年卒す。藤沢山縣家の祖。坂本家文書の山県昌満禁制写に名前を確認することができます。

定昌
 源八郎?大宮神馬奉納に源四郎とともに名前が確認できるそうです。萩原豊前の子供で昌景の養子。定昌と同人物なら慶長六年上杉に出仕。

昌久
 上村源四郎と称し、長篠後は母方の実家、尾張で暮らす。その子昌時が越前松平家 (結城秀康) に仕えて第二家老、3600石。寛文四年七月十六日卒。福井笹治山縣家の祖。以後笹治となのり、十代後に山県性に復帰。福井笹治山縣家は現在も御子孫の方がいらっしゃいます。

昌重
 三郎右衛門。大坂の陣のときの塙団右衛門の付け家老。慶長十九年五月六日、浅野隊上田宗固の兵に討ち取られる。江尻時代の子供と言われるが詳細不明。

太郎右衛門
 野沢豊後の子供で、昌景の養子。四代後が山県大弐です。

信継
 三郎兵衛。徳川家に仕え、山梨県川浦村で五百石を与えられ、川浦口留守番を命じられる。現在は三富村川浦温泉山県館の後当主が御子孫。武田旧温会会長!

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その他の山県性の人
山県主計 永享五年一蓮寺過去帳
山県出雲 長禄元年一蓮寺過去帳、馬場合戦で討ち死に
山県善左衛門 武田家過去帳、御前小路
山県源左衛門 続峡中家歴鑑に載る。塩山市。徳川家より長坂町に800坪を下賜される。
山県次郎兵衛豊昌 高根町「誠忠旧家禄」に名前確認
山県与市右衛門建昌 韮崎市。子孫を名乗る。

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 昌景の死後、子の三郎平信継は徳川家より川浦村(現三富村)で五百石を与えられて川浦口留番を命じられた。代々番所守を勤めた。また東山梨郡奥野田村熊野(塩山市)の山県源左衛門家も昌景を祖とする。同家は昌景の子、昌純(源四郎)の子荒二郎純寿とともに老ヶ森(長坂町)に住み、徳川家より同地に八百坪を下賜された。山梨県内には三十二戸。

 佐世保山県家は、正月に信玄公、勘助公、昌景公の画像を飾る風習が今でも続いているそうです。


福井笹治山県家系譜
 笹治大膳正時は山県昌景の孫。結城秀康に仕えて高は三千六百石+与力十騎千石。福井藩筆頭家老は二万石で本多内蔵助。二番が笹治である。昌久は、天正三年、父昌景が長篠で戦死後、母上村氏と共に尾張羽栗郡の母方の上村左衛門のところに行き。慶長十三年、四十六歳で病死。昌久は十三歳で父を失い浪人で生涯を終わったが、子正時が慶長四年下総国結城に召し出され、三千石の大身になった。笹治家は与力分含め最高時は一万石 (昌次) であった。

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参考文献 
 
甲斐国誌、山県昌景公とその御子孫、角川性大辞典・山梨、山梨県中巨摩郡郷土研究史、山県大弐先生事績考、設楽原戦場考、神奈川県藤沢市 山縣武家所蔵「山縣系図」、福井笹治山県系図、長編長篠軍記

 本記事は、川浦温泉山県館、竜王町教育委員会、恵林寺の協力により調べることができました。この場を借りて感謝の意をのべさせていただきたいと思います。ありがとうございました。

山県三郎兵衛尉昌景

山県氏

武士の心得

合戦

火踊りと昌景・設楽原合戦

装備品

山県姓襲名と兄の謀反

義信謀反事件

山県大弐

火踊り

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広瀬美濃守景房

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