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昌景は大久保 (徳川) 隊の攻撃を足軽を出して競り合っていたが、次第に誘い込まれて「あの柵を押し破れ」と、三千の赤備えの兵に下知した。大久保隊は十分引き寄せて、三百余挺の鉄砲を絶え間なくうち続けた。そこで山県隊は、大久保隊の右、連吾川の下流を迂回して柵のない南側から、徳川軍の側方へ出ようとしたが、両岸とも急峻で渡ることができない。 やむなく山県隊は手勢を率いて雁峰山寄りの佐久間隊へ目標を変え、筋交いに激しい攻撃を加えた。この攻撃に対して、織田軍は柴田、丹羽、羽柴隊が側面より、これを阻止しようと戦いを挑んできた。その織田軍を再び山県隊が攻めて追い込み、なお後備えを立て直すと、弾正丘陵のほぼ中央にある徳川本陣に迫ろうとしていた。 この山県隊の攻撃を迎えたのは、本多忠勝隊であった。昌景は背は低く、みつ口、胸は一枚あばらで、疲れを知らぬ強靱な体の持ち主で、黒地に白桔梗の旗指物を背に、戦場を駆けめぐる姿は、敵味方、両軍の注目の的であった。それ故、徳川方銃手の格好の標的になった。 昌景は、体中蜂のように銃弾を浴びて、遂に両腕の自由を失ってしまっていたが、采配を口にくわえて指揮を続けていた。が、銃弾が鞍の前輪を打ち抜いたため、落馬してしまった。彼の従者、志村又右衛門光家は、胴切山の中腹にある百姓の家 (峰田家) に主人を背負い込んだ。しかしすでに事切れており、敵の喚声は潮の様に迫ってくるので、今はこれまでと、主人の首を落として腹巻きに包み、腰にゆわえ付けた。昌景の死体には、くれぐれも甲州勢の供養を頼むと書き残し、短刀「小烏丸」を添えて落ち延びた。 戦いが終わり、竹広の里人は昌景の遺体を懇ろに葬り、その塚の上に松を植えて、「胴切りの松」と名付けたが、今は名前だけでその松はない。また、短刀「小烏丸」も長らく峰田家に所蔵されていたが、第二次世界大戦後、軍に接収されたままであるという。決戦後、このあたりの地名を「山形 (県?)」と呼び、この塚を「山県様」と敬慕し続け四季絶えることなく香華が手向けられている。また信玄塚の火踊りの行事は、志村又右衛門が竹広の民に頼んでおいた遺書によって行われている。山県公の盆供養で、大松明を振って踊るのは、山県公が苦戦の修羅場を現し、その霊を慰めるためのものであるという。一時火踊りを止めたことはあったが、そのときも峰田家の方は、一人で松明を飛ばし、念仏を唱え塚の付近を踊り歩いたという。
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