昌景の最後-設楽原の合戦と言い伝え

設楽原火踊りと昌景

 

 設楽原の戦いが終わって一ヶ月が経ったころ、信玄塚から多くの蜂が出て街道をゆく人馬を刺したため、通行が困難になった。これは武田軍の死者の霊が蜂になって現れたというので、昼間は大施餓鬼を行い、夜になって松明を炊いて供養に勤めたところ、蜂の大群は現れなくなった。これが八月十五日に行われる「火踊り」である。

 この火踊りの火元を代々勤めている峰田氏宅の裏山に大桧がある。峰田家は昌景公と非常に関わり合いがある。昌景の首は、

 国会図書館蔵・山県三郎兵衛尉昌景画像模写
 たきやんさまのご協力により掲載!

 

「甲陽軍艦」
 山県三郎兵衛昌景は、鞍の前輪のはずれを、鉄砲で後へ打ち抜かれ、則、討死あるを山県の被官、志村、頸をあげて甲州に帰る

「信長公記」
 討ち取る頸の見知分、山県三郎兵衛、西上野、小幡、横田備中・・・・

長篠古戦場見聞録
 山県の首は竹広村黒畑、阿弥陀堂したにあり。程経て尋ね出し実験に入れしといへども取留め不申。
「設楽原竹広付近の言い伝え (竹広峰田家口伝言い伝え)  昌景は一枚あばらで、兎唇で、背は低かったが非常に強かった。首は志村が持ち帰って、徳川へは渡さなかった。とある。

 昌景は大久保 (徳川) 隊の攻撃を足軽を出して競り合っていたが、次第に誘い込まれて「あの柵を押し破れ」と、三千の赤備えの兵に下知した。大久保隊は十分引き寄せて、三百余挺の鉄砲を絶え間なくうち続けた。そこで山県隊は、大久保隊の右、連吾川の下流を迂回して柵のない南側から、徳川軍の側方へ出ようとしたが、両岸とも急峻で渡ることができない。

 やむなく山県隊は手勢を率いて雁峰山寄りの佐久間隊へ目標を変え、筋交いに激しい攻撃を加えた。この攻撃に対して、織田軍は柴田、丹羽、羽柴隊が側面より、これを阻止しようと戦いを挑んできた。その織田軍を再び山県隊が攻めて追い込み、なお後備えを立て直すと、弾正丘陵のほぼ中央にある徳川本陣に迫ろうとしていた。

 この山県隊の攻撃を迎えたのは、本多忠勝隊であった。昌景は背は低く、みつ口、胸は一枚あばらで、疲れを知らぬ強靱な体の持ち主で、黒地に白桔梗の旗指物を背に、戦場を駆けめぐる姿は、敵味方、両軍の注目の的であった。それ故、徳川方銃手の格好の標的になった。

 昌景は、体中蜂のように銃弾を浴びて、遂に両腕の自由を失ってしまっていたが、采配を口にくわえて指揮を続けていた。が、銃弾が鞍の前輪を打ち抜いたため、落馬してしまった。彼の従者、志村又右衛門光家は、胴切山の中腹にある百姓の家 (峰田家) に主人を背負い込んだ。しかしすでに事切れており、敵の喚声は潮の様に迫ってくるので、今はこれまでと、主人の首を落として腹巻きに包み、腰にゆわえ付けた。昌景の死体には、くれぐれも甲州勢の供養を頼むと書き残し、短刀「小烏丸」を添えて落ち延びた。

 戦いが終わり、竹広の里人は昌景の遺体を懇ろに葬り、その塚の上に松を植えて、「胴切りの松」と名付けたが、今は名前だけでその松はない。また、短刀「小烏丸」も長らく峰田家に所蔵されていたが、第二次世界大戦後、軍に接収されたままであるという。決戦後、このあたりの地名を「山形 (県?)」と呼び、この塚を「山県様」と敬慕し続け四季絶えることなく香華が手向けられている。また信玄塚の火踊りの行事は、志村又右衛門が竹広の民に頼んでおいた遺書によって行われている。山県公の盆供養で、大松明を振って踊るのは、山県公が苦戦の修羅場を現し、その霊を慰めるためのものであるという。一時火踊りを止めたことはあったが、そのときも峰田家の方は、一人で松明を飛ばし、念仏を唱え塚の付近を踊り歩いたという。


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