山県性襲名と兄の陰謀

 昌景が山県性を名乗ったのは、永禄八年のことと言われている。昌景は兄虎昌太郎義信の間に「信玄排斥の陰謀」があるのを察知した(とも、兄がそれとなくもれるように仕向けたとも)。「灯篭流しを見物する」と義信は言い、飯富邸に集まった。長坂源五郎、曽根周防などの面々と「主君信玄を謀殺し、義信を甲斐の守護にしよう」と謀議した。ふすま越しに昌景は聴き、「いかに兄といえども、御大将に弓引く謀反の企ては許すことは出来ない」と信玄に訴え出た。

 この事件は信州川中島合戦で越後の上杉謙信と決着を見た信玄が、上洛を意識して東海地方への本格的な進出を考え始めたのに起因する。今川攻めを画策しているのを知った義信は猛反対した。これにより信玄、義信の父子の対立が表面化した。義信の妻は今川氏真の妹であり、弱体したとはいえ、今川を攻めることが若い義信には耐えられなかった。さらに追い討ちをかけるように、弟勝頼の婦人に織田信長の血筋である遠山氏の娘を迎えることが決まった。信長は今川義元を討ち取った張本人である。(または、義信衆と古い信玄衆との対立との説もあるが、詳細は不明。)


 謀議が発覚して義信は総領の座から下ろされ、東光寺に幽閉された。飯富虎昌ら義信の側近達は追放・処刑された。昌景は
「兄を裏切るより、子に裏切られる父の方が、はるかに心の傷は深い」と言ったと言われている。古代中国の教えに、「大儀、親を滅す」という戒めの言葉がある。信玄も過去に父信虎を駿河に追放した経験があり、この教えを断行したものと考えられる。大儀すなわち、大きな目的のためには、肉親の情も時には断ち切る必要がある。信玄の言う大儀が「国を守り領民を安んずる」ことであったのなら、昌景の大儀は「引き立ててくれた主君への忠誠と武田家を守る」ため、たとえ実の兄であっても肉親としての情に溺れてはならないということになるであろう。信玄は心中の慟哭を押し殺してまで訴えでた昌景の忠誠を賞し、三百騎の侍大将に昇進するとともに、甲斐の名門山県氏の名跡を継がせたという。

山県三郎兵衛尉昌景

山県氏

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山県姓襲名と兄の謀反

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