長篠合戦図屏風と広瀬美濃


 本屏風は名古屋市博物館本・犬山成瀬家本・徳川美術館本・大坂城天守閣本・大分奥平神社本・平戸松浦史料博物館本・彦根城資料館本・彦根木俣家本など多数が残っている。成瀬家本がもっとも古いとされ、多く伝来している長篠合戦図の元になったと言われている (戦国合戦絵屏風集成第一巻)。

 「大○公記」(○は読めませんでした) に、1625 年2月17日に尾張徳川家家老成瀬隼人正正成の死について述べた条文があり、長篠合戦を描いた。そしてこれを子孫に残すという下りがある。宮島新一氏、高柳光寿氏は、この作製年代に疑問を投げかけ、信長公記、甲陽軍艦、三河物語、三州長篠軍記などを題材に、当時流行っていた軍記物によって理解されていた合戦を絵図としたという見方が今日の理解である。

 話がだいぶ逸れてしまったが、言いたかったのは、どの絵図においても広瀬郷左衛門、三科伝右衛門は中央下に描かれていると言うことである。長篠の合戦図を見ていると、織田徳川、武田家の有名な武将については事欠くことなく描かれている。しかし、異質な武将が三人武田方で描かれているのはなぜであろう?

 まず第一が、志村又右衛門。彼については他の項で詳細に述べたので、そちらを参考にされたい。簡単に記しておくと、甲陽軍艦にある鉄砲によって撃たれた武田の猛将、山県昌景の首をとって、被官の志村某が甲州に持ち帰ったというところを参考にしているものと思われる。しかし、甲州勢の陣立ての参考となった甲陽軍艦には、右翼の陣立ては非常に詳細に書かれているが、残念ながら中央、左翼についてはあまり詳しくなく創作が入っているものと思われる。また、志村が持っている山県の采配については、甲陽軍艦には記載されていないし、長編長篠軍記にも采配をくわえてて絶命したと言う話は載っていない。もちろん信長公記にも・・・この話は、「江戸期に大成された君主と家臣たるものの道 (朱子学) として非常に共感を得たものであった」、ということで描かれたのではなかろうか?

 次ぎに広瀬郷左衛門・三科伝右衛門の二人。甲陽軍艦の天正三年五月二十一日の項に「家康衆六千許を、山県三郎兵衛千五百にて、柵の内へ追込。されども家康強敵の故、又くひつき出る。山県衆は味方左の方へ廻り、敵の柵の木いはざる右のかたへ押出、うしろよりかかるべきと働を家康衆みしり、大久保七郎右衛門蝶の羽の指物をさし、大久保次右衛門金のつりかねの指物にて兄弟と名乗りて、山県衆の小菅五郎兵衛、広瀬郷左衛門三科伝右衛門此三人と詞をかわし、追入追出し、九度のせり合いあり。九度目に小菅、三科も手負引のく。その上、山県三郎兵衛鞍の前輪のはづれを鉄砲にて後へ打ち抜かれ、則討死あるを、山県被官志村頸をあげて甲州に帰る。」

 この条文しかないのに、長篠の合戦図全てに広瀬・三科が書かれているのはどのような理由なのであろうか?それは安土桃山から江戸初期にかけて、両名 (広瀬・三科) の名がなかり高く知れ渡っていたものであると理解すれば非常に簡単に理解できる。ご存じのように、家康は武田信玄を崇拝していた。上杉謙信と並んで軍神としてあがめるように・・・。謙信は上杉家が存続しているため、崇拝することは上杉の家名を上げてしまうことになる。それより、軍神武田信玄をあがめることにより、また、その信玄にのみ敗れたと言うことは次なる軍神はこの家康であると言うことを誇示し、その配下であった武田家遺臣の名を上げることによって徳川軍団の武勇を誇示したのではなか。

 広瀬・三科の両名は武田時代より名高く、功名も抜群であった。しかし、足軽大将にはなれなかったため (一騎掛けが多かったためか?) 、山県衆の采配御免の衆となった (正確には、勝頼時代には広瀬は足軽大将に任命されたが)。山県衆で采配を任された人間は三人。小菅が一番で三科、広瀬がその次ぎであった。広瀬、三科は長篠合戦で山県、馬場、真田兄弟、内藤らの宿将が亡くなった後、武田家の足軽大将に昇進できた。このような二人を家康は非常に厚遇した。本能寺の変後の家康の甲州進出である若神子の陣では、武家事記によると、「等々呂木、大野砦へ押し掛けた敵 (北条方) 風間孫右衛門以下五百を、八月九日勝沼にて大いに破り、恵林寺、中摩木の一戦に下地して大利を得、その手に敵将大村在生 (大村伊賀守) を討ち取った。二人はこの功により旧知にそれぞれ二百貫づつの加増を受けたという」。二百貫と言えば約八百石。それ以前に八百石くらいはあったであろうから、彦根での二千石は広瀬にとっては非常に少なかった。しかし、なぜ井伊家を離れなかったのか。これについてはあとで考察する。

 

広瀬郷左衛門景房

赤備え内の特殊な旗指物

三科伝右衛門形幸

小牧長久手の合戦

信州上田合戦

関ヶ原の合戦図屏風

大坂冬の陣と広瀬左馬助

広瀬家の系図