与力、同心と三郎兵衛に関する逸話! 三郎兵衛、危うし!

山県三郎兵衛隊同心  北地五郎左衛門

 伊勢浪人である北地五郎左衛門は、戦場では無類の働きをしたが、非常に現実主義者であった。十六貫の知行を持っていたが、土地がやせていたので替え地を山県三郎兵衛の経理担当の大場民部左衛門にしばしば要求したのであった。
 民部左衛門は、本来ならこれを三郎兵衛に注進して処理しなければならなかったが、他国者とあなどって放置したのがそもそもことの始まりであった。
 五郎左衛門は、業を煮やし、武田家を浪人する覚悟を決めたのであったが、
武田家には仕官する者はいても、辞めて退去する者は一人もなかった。辞めてよそへ行くと、「何か失敗したのであろう」と思われるので、退去することもできず自害することに決めた。
 五郎左衛門は仲の良かった同輩にこのことを告げて切腹に取りかかったが、同輩が押さえたため腹が切れなかった。そこで膝の上の「犬ほえず」と言うところを十二・三回突き、そして三日目に死んだ。

 山県三郎兵衛はこれを知って大いにあわてた。管理不行き届きという事である。部下の管理が行き届いていなかったということで、責任は三郎兵衛にあると言われてもしょうがない状態であった。彼は目付、横目付に言うより先に、信玄公に報告した。
 

 信玄も非常に渋い顔をした。このようなことがあると家中に示しがつかない。山県は職であり、最高行政・軍事職である。家中にゆるみが出て軍団の戦力にも影響しかねない。三郎兵衛は、信玄がこの場合「私情を捨て、小を捨て、大を生かす」と言うことを知っていたので、原隼人祐、三枝勘解由左衛門、曽根余市助を証人として誓詞を出し弁明した。三郎兵衛自身が処罰されても全くおかしくない状況である。信玄は家中一の功労者である山県に対しても公正に、ものものしく、長坂釣閑斎、跡部大炊助に目付、横目付を付けて十分調べさせた。またそれに加えて訴人係である岩間大蔵左衛門にも協力させて調べさせた。

 其の結果、三郎兵衛は全く知らなかったと言うことで「叱りおく」という事で済んだ。しかし、経理の大場民部左衛門は成敗された。そして北地五郎左衛門の葬儀をした清白寺には、二十人頭、御中間頭など四人に二十両を持たせ霊を弔ったという話が伝わっている。
 
 信玄公の他国者・甲州者に対する扱いを示している良い例である。武田家中では、どちらに対しても平等に扱うかという気風があったようだ。三郎兵衛は職である。三郎兵衛の様な譜代の家臣で、しかも重職にある人間に対しても、平等に扱うという気風は現在にも共通する。

参考 甲陽軍鑑、武田武士の系譜


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