こちらには、古レールを調べながら見たこと、感じたことを雑記的(日記的)に書いていこうと思います。
おもてのページは、おもいっきり、真面目に徹してしまいましたので、ここは、息抜きのようなものだと思ってください(最近は闘病日記と仕事の愚痴ばかり?)。反面、おもてのページに反映しきれない最新情報が埋もれている可能性もあります。が、1ヶ月分くらい溜め込んでは、時間を逆登って書くことが多くなってしまっており、ほとんど夏休みの日記状態です (^_^;>。 各リンクについては、雑記という性格上、古いものを修正していくつもりはありませんので、リンク切れがあるかもしれません。あらかじめ、ご了承ください。 |
今年の一番の出来ごとといえば、やはり入院して手術を受けた事でしょうか。入院前の準備も慌ただしかったですし、退院後も経過が良好とは言えなかったので、書く機会が無かったのですが、いろいろと貴重な経験が出来たと思っています。
なかでも、自分が辛棒強い事に気が付かされたのは、特筆すべき点でしょう。扁桃腺の手術の後の食事と言うのは、大概の人は痛みから、ほとんど食べられないそうです。私は、食べた方が直りが良いと知らされていたのもあって、痛みに耐えながら、時に1時間近く掛けても食べ切っていました。
普段、仕事をしていると、根性論のようなものを振りかざして注意されることもあり、自分は根性無いと思い込んでいました。そのため意外だったのです。もっとも、仕事に復帰してからは、「辛抱強い自分」を意識出来ない場面も多々ですけど.....。
そのほかにも入院中は、いくつもの発見がありました(一つ一つは書かないけれど)。今後の自分の人生に活かして行ければと思っています。
ウェブページ更新の遅延は、仕事が忙しかったのが原因の一つでしょう。体調の方は、回復しつつあるのも事実ですが、毎週のように病院で点滴を受けてますし、休日は横になっていることが多いのも事実で、完全回復とは言えないでしょう。残業量を減らせば、余力(時間・体力)も出てくると思うのですが、なかなか許してもらえないですねぇ。
逆に言うと、ここのところの調査日誌の内容が、会社や病気への愚痴ばかりになってしまっているのも、仕事をしているか横になっているかしかない生活が続いているこのの反映でしょう。皆様にはつまらない文章ばかり読ませてしまって、申し訳ないです。
年末年始はカレンダー通りに9連休できるとは思いますが、仕事納めまでにしなければいけない仕事も多数残っており、しばらくは現状が続きそうです。年末年始の予定を考える暇も無いのも辛いところです。
Yさんは、冗談が好きで、いつも馬鹿話で盛りあがった。飲み会の席には無くてはならない人であった。
本当は明日の葬儀にも出席したかったが、外せない出張が重なっていたため、今日いとなわれたお通夜に出かけてきた。それでも、Yさんが亡くなったとは、どうも信じられないのである。遺影は真面目な顔をしており、いつも笑顔が絶えなかったYさんとは、なおさら別人の印象を持った。とにかく、突然の死であった。
最後になりましたが、故人の冥福をお祈りします。
補遺
のちにわかったことだが、Yさんは「くも膜下出血」で亡くなったそうで、出張先で不調を訴え、救急車で運ばれたものの、時既に遅しということだったそうだ。ここのところ特別忙しかったわけではなかったが、ちりを集めたような疲労が原因だったのではないかという憶測もある。
私も命こそ落さなかったが、ここ数年体調を壊している。その一因は会社にあると思っている。私が過労死しても仕事のストレスで自殺しても、労災の対象として十分な残業をしていたのは事実だ(死ななきゃ労災にならない?)。とにもかくにも、命は大切にしたいものだ。
ところが先日来、北海道の仕事を担当しており、今日はその業務報告のため札幌まで行ってきました。すなわち、北海道に足跡を残す事がようやくできました。到達最北端も札幌まで延びました (^_^; 。
今日は日帰りで、当然、東京〜新千歳は飛行機でしたが、新千歳空港〜札幌間はJRの利用となりました(上司から、事前に聞かされていなかった。普通は知っている必要ないか,笑)。新千歳空港駅では、快速エアポートの空席を探すふりをして、最後尾デッキの後かぶりポジションをちゃっかりゲットして、北の風景を満喫してきました。
それにしても覚悟していた事ですが、すれ違う鉄道車両は見たことないものばかり....
(^_^; 。見覚えのあるものは、貨車くらいでしたが、かねてから念願だった DF500
が見れたのは感激 (T.T)。
古レールと言うと、千歳線は改良が進んでいて駅には全く無いですねぇ。函館本線といっしょになって、白石,苗穂では跨線橋などで古レールが見えました。
土日に時々休む権利くらいは、きっちりと保証してもらいたいものです。まして今日は「勤労感謝の日」なのだから....。
これまでは、残業がある程度深夜まで続いてしまった場合、電車(座れない。優先座席に座らせてくれと懇願して見たこともあるが逆ギレされた)に乗って帰る体力などありませんでしたから、TAXI で帰宅することが多くなっていました。それが連日遅くまで働けて、電車で帰れるようになっています。
ところが困った?問題が発生しました。私が行き帰りに愛用しているのは、埼京線の10号車(下りは最後尾車両)なのですが、11時を過ぎると女性専用車になってしまうんですよね。女性専用車って私が体を壊してから導入されたものですから、今までは影響を受けることはほとんどなかったんです。
実際には10号車付近で電車を待つのもガードマンに制止されます。いつもの10号車に乗れないというのは不満もありますが、乗車を拒まれるくらい遅くまで働けるというのは、嬉しい部分もあり、複雑な気分です。
さて私の苗字を見て、ピンと来ていたC社の皆様ならびに、F社,M鉄,...... の皆様、それは当たりでございます。ここにしか書かないつもりですが、某社の研修センター(昔の鉄道学園だね)で副長をしていたのは、正に私の父です。
高校卒業後、国鉄へ入社。機関車(当然、蒸気)磨きから始まって、機関助士も経験。折しも無煙化の時期だったため、蒸気機関車の機関士にはなれなかったものの、DL,ELの機関士となって列車の先頭に立っておりました。その後、交番(地上)勤務を経て、助役となりました。入社以降、地元米原機関区はもとより、稲沢機関区(第1だったか第2だったかは聞いていない)、美濃太田機関区,大垣電車区などに勤務していたようです。
私の父は、行動力にあふれ、いろんなものを工夫して作る(例えば、米原−田村のDE10連絡のさよなら列車のHMは父の作)し、何よりも人あたりの良さは抜きんでているように私には見えます。このあたりが、現場叩き上げでありながら、研修センター副長にまでなれた理由ではないかと思います。
息子の私としては、そんな父親の背中を見ながら追い掛けているつもりです。男にとって、父親は最大のライバルとも申しますが、本当にそんな気分です(向こうは相手にしていないだろうけど....)。
0. JR中央線水道橋駅(未調査)のホーム上屋を見学(前夜,解散)このうち 4. ですけど、古レール調査の自粛を思い立った某駅での調査でした。1人だと怪しいですけど、2人なら多少マシだろうということで、なんとか調べれました。もう調査不可能だと思っていただけに助かりました。
1. 小田急線東北沢駅にて集合
2. 同駅の日本製鉄(八幡製鉄所)の紀元2608年の製造銘の入ったレールを観察
3. JR中央線大久保駅,東中野駅(未調査)の古レールを見学
4. 高架化工事により撤去間近の中央線駅の古レールを調査
5. 京王線調布駅の古レール(珍品多し)を観察
6. 井の頭線〜山手線経由で東京駅に出て解散
今日は、まずは早起きをしまして、急行ベイドリーム横浜号に乗車してきました。この列車は、常磐線から新松戸の連絡線を通って武蔵野線に入り、武蔵野南線,高島貨物線を通り、根岸線へと運転されたもので、私にとっては北小金−南流山の武蔵野線の連絡線が初乗りでした。高島貨物線は2度目でしたが、前に乗った2〜3年前は沿線にいろいろと怪しい貨車などが放置してあったのが、すっきり無くなっていて、怪しさ半減でしたねぇ。
この列車からは、石川町で下車し、前に新日鐵八幡などを一緒に探訪した関西在住の古レール仲間と合流しました。他に連れもいたこともあり、この日は古レールなどを見るのは止め、日比谷公園で開催されている鉄道フェスティバルに行ってきました。ここでは例年、JR貨物のブースに古レール(刻印部分)が毎年のように展示されていたり、レールのスライス文鎮などが入手できます。
今年はJR貨物のブースに古レールの展示はありませんでしたが、御岳登山鉄道のブースにて楔形レールが超安価(とは言え、クズ鉄代から見ればボロ儲け?)で売られていました。当然、私のものになりました
(^_^;。その他、岡山電気軌道のブースで溝付きレールをスライスした文鎮が売られており、これも購入しました。
と、ここまで。楔形レールがあまりにも重くて (x_x)。結局、宅配便で自宅に送り付ける事にしたのですが、日比谷公園の近所にはコンビニなんてものはなくて、東奔西走しているうちに夕方になってしまい、今年はあまりブースは見学出来ませんでした。
古レールの調査は他人に大きな危害を与えているとは思えない(本当は、駅員にとっては迷惑だろう....ここを追求されると私も弱い)のですが、李下に冠を正さず瓜田に履を納れずという言葉通り、誤解を産む可能性のある行為は謹んだ方が良さそうです。そのため、しばらくは古レールの調べ方を工夫する必要がありそうです。少なくとも名案が浮かぶまでは、駅での調査は私自身は自粛してしまおうと思っています。
#ということで、撤去直前の中央線の古レールは記録に留めることはできなさそうです (T.T)。
病気が悪化しても、それなりに続けていた古レールの調査ですが、こんなことで自粛しなければいけない事態とは、情けないです。
ただし休職期間も含めて、体調の方は思ったほど良くなかったのも事実です。もともと入院前は、週5日の出勤もままならない状態でしたので、基礎体力を目いっぱい落していました(その上、手術までやった)。反して退院後は気持ち的には余力を出せるようになりましたが、落ち込んでいた基礎体力のために、本人的には思うように行かないので、いま一つと感じているというのが実情でしょう。でも再会したまわりの人は一様に、顔色が良くなったと言っていますので、トータル的には快方で間違い無いと思います。
そう言えば、昨日で手術からちょうど1月でした。すっかり忘れていました。出血(ときどき微量はあった)の心配は無くなりましたが、まだ喉のところが突っ張っている感覚が残っています。
で、15日は両親と出かけ,16日は私を心配して立ち寄ってくれた弟夫婦と出かけたりと、慌ただしい日々を過ごし、17日にはやはり静岡県内の東海道本線(草薙,興津,由比,富士,吉原,原)の古レールを調査しつつ帰宅しました。東海道本線の古レールは、この方法を何度か繰り返して、全部見てしまおうと計画しています。
そう言えば静養のはずだったのですが、この間約100本のレール(重複除く)を見ました。さすがに疲れました。
ところが、予約の時間が朝早めだったので、ラッシュ時の出発となりました。帰省(+古レール調査)用の荷物を持っていた上に、久しぶりの痛筋列車だったのが功を奏して、どうも電車に酔ってしまったようです。あと一歩で乗り替え駅の池袋と言うところで、どうにも我慢できなくなってしまったのですが、電車は場内信号に引っ掛かり停車寸前。もうダメだ、吐くぞと覚悟を決めた瞬間、なんとか動き出してくれました。我慢しきって、池袋駅でホームに転がり出たのですが、さすがにへたり込んでしまい、押込係の駅員さんに「大丈夫ですか?」と声をかけてもらう事態となってしまいました(結局、病院の予約もあるし、自力で立ち去った)。
思えば2年半ほど前のこと。ちょうど体調を壊し始めた時期に、やはり出勤中の電車の中で気分が悪くなって途中で電車を降り、しばらくホームで延びていたことがあるのですが、この時は駅員さんに発見してもらえず、しょうがないので、しばらく経ってからドボトボと駅を出てタクシーで帰宅しました。あの時、駅員さんに見つかって救急車で搬送されていたら、こんなに苦労しなくても済んだかもしれない....。今となってはチャンスを逃したなぁと思っています。
−−−−
というのに、病院で目まい止めの点滴を打ってもらうと、そのまま近くの駅のみどりの窓口に直行し「米原まで乗車券のみ。在来線で行きます」。まるで懲りていません。
手術も無事終わっています。今は無き私の扁桃腺ですが、先生によると、手術のためカンシでつまんだところ膿がジュっと出てきたそうで、化膿は進んでおり、手術の判断は間違い無かったとのことです。手術では扁桃腺を摘出した跡は、皮膚(膜)で覆ったりといった事はせず、むき出しのまま傷が治るのを待つ(*1)ことになります。そのため手術直後は、麻酔が解けるとともに激痛としゃべれないことに難儀しました。また、全身麻酔が解けるまでの間は、体も動かせず(耳は良く聞こえた)、酒に悪酔いしたみたいで辛かったのが手術の感想でしょうか。
入院中は6人部屋で過ごしましたが、同室だった827号室の皆さんお世話になりました。この場をお借りして、お礼いたします。
入院中同室だった方から、戦前に自動車免許(噂に聞く、何でも運転出来るという例のアレ)を取られた武勇伝を聞きましたが、自動車で(東京)市電の線路を走るのがお気に入りだったそうです。線路を走るとハンドルを切らなくても曲がっていくので快適で、レールと部材だけのガーダー橋を渡ってしまった(*2)こともあるとか。というのも、当時のレールは今のと違って、溝が付いていたからだそうです (^_^;。
---------
*1 先生に理由は聞きませんでしたが、その方が手術跡がスムースになって、支障が少ないからではないでしょうか。
*2 当然進入禁止だが、気が付かずに、そのまま進入してしまったそうだ。
もっとも、表向きの休職の理由は「慢性扁桃腺炎治療のため、扁桃腺切除手術の実施に伴う入院と、退院後の自宅療養」としています。結局、扁桃腺を切る事にしました。というより、多少動けても実のところは腫れっぱなしで微熱が全く引かない状態で、坑性物質も効かなくなっていましたので、切除するまでは回復の見込みなしという感じです。1日も早く切除したいというのが実情です。
と言うことで、本日より入院してきます。手術は27日の予定です。手術は簡単なものですが、部位が部位なだけに全身麻酔になります。昨今は医療ミスが話題に登る事が多いですので、全身麻酔には不安があります。私としては、文字通り「まな板の鯉」ですので、何事も無い事を祈るしかないようです。
#東武太田駅の段付きレール使用の跨線橋は、撤去されているが、一部の構造や部材が保管されている事も発見。
最初のドラゴン号(鉄道ファンを中心に猛烈に混んだ)は終着駅に到着する前にヘロヘロ。伊勢崎線(羽生駅)は帰ってきてからダウン。と、復調とは言いがたい状態です。しかし、湖東エリアを回った時は、それなりに元気でしたので、全体的に見ると回復傾向は示しているようです。
今から思えば、GWもちゃんと休めていれば、この程度の回復は見られたハズで、ここまで体を壊す事は無かったのに....、などと思っています。
重荷から開放されたわけで、肩が随分軽くなったような気分ですが、体調が急に良くなるわけではなく、気は急いても体追い付かずで、今は変な感覚です。もうしばらくは無理をせず、おとなしくしていた方が良いようです。
さて80年前と言いますと、件のポスターにも書かれていましたが、1922年になります。1922年というと、南満州鉄道のマークが入った STEELTON 製レールが前月の1922年6月製、日本の官営八幡製鉄所で生産されたレールは製造月表示が入らなくなる時期に相当します。
また1922年頃は、ASCE規格の各国の多種のメーカーの古レールが爆発的に入りはじめる時期です(しかし1926年頃に終焉する)。古レールを見るものとしては、そろそろ面白い時期は終わりかなという頃でもあり、「最近」という感覚があります。
政治は3流などとよく言われる日本ですが、最古の政党ですら、あまたある古レールに比べれば「全くの若造」なわけで、むべなるかなという感じです。
そもそも無茶なスケジューリング
体調は良くなかった |
||
↓ | ||
スケジュールに余裕なし | ← | 結局、会社を休む |
↓ | ↑ | |
無理をしてでも出社する | → | 体調をさらに壊す |
ここのところは、会社も出たり休んだりで、同僚や上司にも「いいかげんにしろ」と三下り半を付きつけられた状態で、精神的にも辛い日々が続いています。いやぁ、「もう何のために生きているのか」などと危険な自問自答の日々です。
持病のメニエール病の治療のために通院を続けているので、ついでに先生に診てもらって、坑性物質も何種類か出してもらっているのですが、今のところ効果なしです。今までの経過を踏まえた今日の検診によると微熱の原因は慢性扁桃腺炎だそうです(いままでの体調不良の何割かは、こちらが原因でもあった?)。私の場合、扁桃線が大き目で感染し易いそうで、切除した方が良いとのことです。
# 何せ、かかっているのは耳鼻咽喉科ですから、こちらも専門 (^_^;
切除は10日程度の入院が必要とのことですが、体調不良にもかかわらず、困難な仕事を押し付けて省みない会社に、私の身を案じてもらうためにも入院という強行手段は良い手かな?などと考えているところです。
それにしても、ここのところ、病名は増えても(H2ブロッカーも飲み始めた (x_x))、古レールの調査結果はあまり増えていないですなァ。
追記:この日に、強めの坑性物質を処方してもらったのですが、これはよく効きまして、久しぶりに快適な気分です。体温が0.5℃下がるだけでも随分変わるものです。
ということで、日本代表の試合をチェックするだけが私の限界でした。ちなみに、全4試合のうち最初2試合はテレビ観戦で、残り2試合はラジオで聞き、チュニジア戦に至っては、東北へ出張の折りで、キックオフと同時に盛岡駅で古レールをラジオでながら調査してました。
さてせっかくですので、試合の感想を書いておきましょう。予選の3試合は本当に最高でした。11人の選手に全く無駄がなく機能しているところに今までの代表の試合に無かった巧さを見せつけてくれました。
今日の決勝リーグ1回戦トルコ戦で、日本代表は敗退となりましたが、これは評価の難しい試合ですね。トルシエ監督は前3回の試合とシステム(フォーメーション)を変えてきました。私はこれは結果的に失敗だと思っているのですが、多彩な攻撃パターンを持っていることが上位進出の鍵と監督は判断したと好意的に解釈しようと思っています。
この試合では、私のお気に入りの小野伸二の活躍シーンが今までより多かったとも感じました。これは、今まで伸二を守備的に使っていたのを、今日は攻撃的に使った現れだと思います。伸二のベルベットパス(目の前で見ると本当、すごいよ)というのは大きな武器であるはずですが、それよりもオランダりーグで培った「当たり」の強さに価値が見い出されたのでしょう。このあたりまだまだ日本の選手層が薄いことを実感させてくれました。
私は常々、日本が世界と真に渡り合えるのは2006年以降だろうと思っています。日本にサッカー文化が根付くには今のペースだとそれくらいとだろういう印象からです。しかし、今回のアジアでのワールドカップ開催によりアジアのレベルの底上げにもなったでしょうし、次は有利なホームでの開催でもありません。1次リーグ突破はおろか、アジア代表獲得も難しくなっているかもしれません。今後も引き続き健闘を祈ります(もちろん「今まで通り」応援しますよ)。
#午後、お客さんと会えたのですが、昨日撮った写真を見せると「夜ですか?」と心配されましたので、「夕方です。ストロボで撮るとこうなっちゃうんです(写り方は本当)と弁明 (^_^;。
さて話しは昨日に戻るのですが、この BLAENAVON は、私に古レールのページを作らせるきっかけにもなったレールでもあります。古レールに関して、@nifty 鉄道フォーラム専門館鉄道歴史談話室(→古レールに関するリンク集)で度々話題になっており、私自身以前から興味を持っていたテーマでもありました。古レールは私もいくつか見ていたのですが、この BLEANAVON を見た後、急に思いたって携帯形パソコンのデータベースを、帰りの列車内で構築しました。また、この BLAENAVON を鉄道歴史談話室で紹介する過程で、古レールを紹介した文献の存在と、その利用方法を教えてもらい、あるいは自分で工夫したことが原点でした。
ということで今回の BLAENAVON との再会は、原点回帰という意味合いも持ち合わせていたのでした。
#ところが、思ったより距離が遠く(大体、中津川インターの場所が悪い)、難儀しました。
さて肝心のレールですが、1875年製ということで、官鉄の京都−大阪間に敷設されていたレールと推定していたのですが、官鉄が使った60ポンドレールに比べて非常に細いもので、付近に多数路線のあった森林鉄道等に使われていたものと見た方が良さそうです。ただし、1875年製のレールにもかかわらず、両端までがほぼ真っ直ぐな状態で残っているものが何本かあることが確認でき、日本の鉄道史上も非常に貴重なものと言えそうです。
追伸:本来ならホテルで休息している夜間に、現場に行き(どうせトンネルだから)仕事をしてきました。これで差し引き上は、不当な立ち寄りではないハズです(ガソリンも一度給油したし)。でも体力の消耗が....。
さて今後の予定ですが、とりあえず今月いっぱいで、今回の注文事項の検討や修正を済ませた上で、件の方に現場を見ていただいて、また新たな「注文」を頂くこととなるようです。
作業の内容は、かなりなものです。体調も良くないこともあって、他のことに力を裂く余裕も無いので、当分はこの仕事だけにかかり切りになりそうです。
さて、今日はE4系(MAX やまびこ)に乗って、東北へ出張してきましたが、最初の停車駅の宇都宮でのホーム進入時に異変に気が付きました。目が回るのです。E4系(MAX)の階下席って、私の身長(座高)だと、目線とホームの高さがほぼ同じなんですよね。平衡感を視力でカバーしている私にとって、目に近いところで物体が移動するのを見るのは辛いものがあります。その後、郡山,福島,仙台....となんとか耐えました。おまけに今日の新幹線は蛇行動が大きかったようで、ダブルパンチです。
#普段でも、ホームで電車の入線などを見ていると、クラっと来ることがあります。
さて帰りは....、また MAX やまびこでした (T.T)。階下席に乗らなきゃいいのかもしれませんが、自由席も指定席も階上席から埋まりますし、かといって立って乗車する体力もありません。ということで、自腹を切ってグリーン車で帰りました。出費により回避できなくはないですが、メニエール病持ちにとって、MAX は体に悪い新幹線のようです。
というのも、突然客先から電話があって、5月末が納期の報告書をGW明けに完成させて持ってこいとのこと。本来の私なら、GWを休んでも平日に深夜残業を続ければ処理できる量ですが、体調の良くない現在の私の場合、GWを潰して毎日無理にならない仕事量で作業するしか無さそうです。
このため、参加を楽しみにしていた、4月20〜21日の @nifty 鉄道フォーラムの15周年記念オフも泣く泣くキャンセルして、体力の温存を図ることにしました。
全く今年のGWはついていないようです。
その後、何年か前に配置替えになって、東北新幹線は乗っても宇都宮まで、ここ数年は大宮までと言うのが実情で、公私ともに東北地方に縁が無くなっていました。そのため古レールのページでも東北地方のデータは欠けていました。
ところがここへ来て、かつてかかわっていた仕事を担当することになり、久しぶりに東北に出張してきました。今回はたいした用事ではないこと、ここのところ体調が良くないことを考慮して、余裕を持った出張スケジュールとしていたので、用件を済ませた後、通り道の東北本線や奥羽本線の各駅を探訪して、古レールを見てまわりました。
さて、私の出身地である滋賀県坂田郡米原町も合併で大揺れになっているようです。米原町には新幹線の駅があるものの単独では町ですが、すぐ近隣には戦国時代以降に城下町として発展した長浜市や彦根市があって、これらの市から合併のラブコールが寄せられているとのことです。そこで米原町では昨日(3/31)、この内容を問う住民投票も行なわれたようです(故にヒトコト言いたいのです)。話題の中心は、在住の外国人にも初めて投票権を与えたことでしたけど......。なお、この投票の結果ですが、「米原町を含む坂田郡の4町での合併」が最大得票となったようです。
なんてことで、最近市町村合併がハヤリですね。なんでも平成17年度までなら、合併補助金が出るから急がなければいけないというのが理由だそうです。まぁ、私は近代史にも関わるウェブページを作っていますから言わせてもらうと、現在の市町村と言うのはどれも歴史的な経緯をもって現在の形に収まっているわけで、それを急に無理矢理変えよう、しかも2桁の数のものを1つに、などというのは如何なものかと思います。もちろん歴史的経緯により、市町村の形が現状に合わなくなってきているところもあるわけですけど、いずれにしても時間をかけて多くの人が納得する形で行ってもらいたいものです。
急ぐところ見ると、やっぱり狙いは補助金ですかね。合併はどうでもよくて、要は補助金が欲しいだけと言うようにも、うがって見えなくは無いです。
そう言えば、私の住んでいる浦和もさいたま市に合併して間もなく1年ですが、今のところ合併のメリット(大宮駅が同じ街と認識できたくらい?)が感じられません。むしろ「浦和」という市の名前をなくしてしまったことに対する虚無感ばかりが残っています。ふるさとの名称や誇りを捨ててまでの合併はやめた方がいいと合併経験者の私としても言いたいです。
とは言え、せっかくですので、松本駅の古レールと帰り道の長野駅の古レールで未調査だったところは、調査して帰ることにしました。先にも書きましたが、松本駅のホーム上屋には随分たくさんの CAMMELL がありました。官鉄発注のものですので、60ポンド第1種で、SEC131 と記されているものです。ちょうど、大学に行ったばかりだったので、在学中の私の学籍番号が 131 番だったことを思いだしました。なんだか運命的な数字ですね。
この指導教官は、名古屋出身の鉄道ファンで、現在のように縮小される前の名鉄を全部乗り潰したと豪語する人物でもあります。今回、自宅へ行って見せ付けられたのが、9mmゲージのレイアウト (^_^;、何でもモデルは高山機関区だそうです。久しぶりの話題は鉄道から、大学の教室の近況・同窓会のホームページなど......。同窓会のホームページでは卒業生の自作ホームページへのリンクも募集しているとのことでしたので、私のホームページについても喉まで出かかっていたのですが、最初に書いたような理由(ホームページを作る暇があるなら論文書け......)から申し出るのは我慢。最も、ホームページを作り始めた理由の一つに、論文を書く時間を作れるか?という実験的意味もあったのですけれど......。
結局、昼まで滞在して帰りましたが、本当のことを言うと、自分の専門分野の地質学の議論をもっとしたかった。せっかくの5年振りの再会なのに、もったいないことしました。
パーティーのために、僕が入手できうる最高の日本酒(多分他人でも....)である「亀の翁」(尾瀬あきら「夏子の酒」のモデル)を持って行きましたが、これはそれほどウケませんでした。むしろ先生は、数年振りに私に再会したことを大変喜んでくれました。どんな銘酒よりも再会のほうか美味なんですね。人生、勉強になりました。
さて、もう一つ持参したものが「カメラ」です。学生時代、私はこの先生が団長もつとめていたある発掘調査団で写真記録係のリーダーを永年やっていました。この時の経験で私は随分「スナップ写真」の腕を上げられたと思っています。ということで、感謝の気持ちも含めてスナップ写真を撮って、さし上げて来ました。喜んで頂けたかな?。
ちなみに私は、このころのカメラの腕を鈍らせないために写真を撮り続けています。単純技術は鉄骨の写真を撮ることで補い、スナップ技術は写り込む人物の顔がわからないようにホームの様子を撮ることで補っているつもりです(失敗作も多いけど....)。パーティーの写真はシャッターチャンスや構図取りなどでの腕のナマりが心配だったのですが、普段の努力の甲斐あってか、ほとんど腕は落ちていないと実感できました。
# 学生時代に私が撮った写真は、社会科の教科書に載っていることがあります。JR東の宣伝誌『トランヴェール』に載っているのも見たことがあります (^_^;。
3/8 補遺
3月2日の行事の後も帰ってから、なぜだか辛い気分に苛まれました。楽しい後に決まって辛い気分に......。もしかして私、躁鬱症でしょうか。
松本での「しなの」の待ち時間は10分もありませんでしたが、乗車位置近くに古レールを発見し、松本駅の古レールをしっかり調査。ここは CAMMELL ばかりでしたので、すぐ完了。長野の乗り換えは、駅員氏が発券を間違えたらしく、間に合う「あさま」が2本?あったものの45分近くの待ち時間がありました。そこで、やはり長野駅の古レール観察。「あさま」では「おぎのやの峠の釜飯」も食べて、満足に帰りました。
補足
料金は長野回りの方が高いです。ちなみに今回は長野で45分待ちがあったので、結果「あずさ」の方が速かったようです。待ち時間は無駄なく使えたし、まぁ、いいか。
ということで古レール調査です。かつて東武線経由で探訪しつつ、古レールの多さに調査をせずに帰ったJR両毛線伊勢崎駅へ行くことを計画しました。両毛線足利駅へ到着すると、ちょうど昼前ということで、まずはかねてから食べたかった佐野ラーメンを食べに佐野へ出向くことにしました。ところが佐野駅に付いてびっくり、高架化工事の最中で、古レールが利用されているホーム上屋は一部が屋根が撤去、支柱だけという状態でした。これは次はもう無いということで、予定外の調査実行、満鉄マーク入りの STEELTON が多数確認できたのは収穫でした。
この予定外の調査もあって時間が無くなったため、伊勢崎駅は断念しまして足利駅のホーム上屋の古レールの調査を行ないました。官営八幡の1903年製,1904年製(1904は希少)が確認できたのが収穫です。
そうそう、肝心の佐野ラーメンですが、佐野駅の古レールの調査に優先して、食べに行っています。醤油ベースのやや濃厚なスープに、平打ちの縮れ麺というのが特徴でしょうか。私は結構好みの味でした。
今年のお正月は、数年振りに青春18切符を買いまして、北陸本線〜小浜線〜舞鶴線〜山陰本線〜東海道本線と回ってみたり、東海道本線を鈍行で上って(途中。静岡鉄道立ち寄り)帰京したりと楽しんできました。また、正月休みの前後には、出張を入れまくったりしていたので、個人的なことがいろいろ停滞しています。ウェブページの更新が滞ったり、年賀状の返事が出せてなかったり(抽選は終わったぞ)しているのは、それが原因です。ここで3連休だったのですが、ここまで仕事に遊びに飛びまわり過ぎたツケが出て3日間ダウンです。よって停滞状況は持ち越しです (x_x)。
なお、お正月に古レールも随分(80本ほど)見てきましたので、そのうちに公開します。
|